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『チェルノブイリの真実~追い続けた10年間、生命の映像記録~』行ってきました [news]

 

アップリンクに着くと、
いつも上映作品の関連書籍やプログラムが置いてある
受付の所が、DAYSコーナーになっていて、
広河さんの小説「帰還の坑道」(サイン入り)や、
DAYS JAPANのバックナンバー、
球美の里のポストカードやTシャツなどが販売されていました。

開場までの間、併設のカフェTabelaでお茶。
ここの無国籍な雰囲気、好きなんです。
今日のデザートプレート、いちご尽くしで美味しかった。

そして、開場、19時の開演前に
広河さんからご挨拶があって上映が始まりました。

今まで、お写真で見せて頂いたことはありますが、
映像として見たのは初めてで、
全体を通して思ったのは、
広河さんが、何故、子どもたちの救援に絞って
活動していくことになったのかが、
ほんの少し、分かった気がしました。

白血病や、甲状腺がんが転移したりして
体中にいろんな器具を付けられて、
最後、もがき苦しんで亡くなっていくというのを
聞くと、何と言っていいのか、言葉にならないし、
子どもが苦しみながら亡くなっていくという、
これほど悲しいものはないというか・・・

保養所で2~3ヶ月療養したりして、
明るさを取り戻す子もいるんですけど、
やっぱり、子どもが原発事故の犠牲になるというのは
どう考えてもおかしいし、どんな説明をされたって
納得できるものじゃないです。

ドキュメンタリーの最後は
希望を感じさせる終わり方でしたが、
これを見て、福島と重なる場面も幾つかありましたし
今でももちろん十分心配なんですけど、
数年後の子どもたちのこと、気掛かりです。

 

こちらの上映の後、事故から12年のプリピャチ市を
広河さんが訪れたときのETV特集
「チェルノブイリ事故12年目の報告
第2回核の町の住民たち」を資料映像として
見せて頂きました。

プリピャチは、原発作業員や科学者など
原発関連の職員、その家族たちが住む町で、
事故前はとても豊かな街で教育水準も高く、
文化活動の盛んな街でした。

プリピャチの街や市民を撮った映像フィルムを
撮影した人の助手の方が保管していて、
事故前の豊かで美しい街や市民が映し出されていました。
撮影した人は、亡くなってしまったのだそうです。

そして、1986年4月26日原発事故当日の映像もあり、
そこには、防護マスクをして見回りをしている人間に
何も知らされていないマスクも何もしていない
一般市民が何か話し掛けている映像もありました。

広河さんは、これらの映像に映っている人たちが
どこにいるのか、何を思っているのか知りたいと
行方を捜します。

映像に映っていた結婚式をしている幸せそうな二人の
身元が分かり、会いに行きます。
子どもが二人いました。
当時の結婚式の映像を見せると、
奥さんは、
「思い出の町を取り戻してくれてありがとう。
子どもたちに見せることができて良かった。」と
涙を流していました。

避難先のキエフには、リトル・プリピャチと言われる
プリピャチ市民が多く暮らす街があり、
一年に一回、お墓参りにプリピャチを訪れる人が
多いそうですが、
奥さんは、自分の中の(プリピャチでの)
思い出を守るために、行かないのだと言っていました。

次に訪れたのは、事故から4年後に結婚したという女性。
彼女は当時、優秀な学生で、全校で二人だけがもらえたという
メダルをもらってる様子が映像に残されていました。
彼女もご主人と一緒に、当時の映像を見ます。
そこには当時、
彼女が結婚を約束していたという人も映っていました。

最初は、笑顔で取材に答えていた彼女も、
生まれ育った故郷を思い出し、涙を流し、
途中、席を外す場面がありました。

結婚を約束していた彼は、たまたま事故当時、
実家に帰省していた時に被曝。
被曝して一年後、脳腫瘍で亡くなったそうです。

原発事故から10年以上経っても、故郷への思い、
そして大切な人を失った悲しみは消えないでいました。

事故当時、3日間ほどの避難だと思い
何も持たずに避難したプリピャチの人々。
その時は、まさか二度と、故郷に帰ることが
できなくなるなどとは思わずに・・・。

9年半ぶりに、プリピャチの自宅を訪れた女性が
涙を流し、言っていた言葉が印象的でした。 

「家に置いてきたのは物ではなかった。心だった。」


 

この映像の後、広河さんのトークイベントがありました。

日本の政府の対応。
国が子どもたちを避難させようとしない理由、仕組み
広島、長崎の頃から今に続く、
治療しようとしない理由、仕組み、
今までも、広河さんから伺っていますが、
聞かせて頂くたびに、怒り、虚しさ、
国からも自治体からも救われない子どもたちを
思うと切なくて、そんなごちゃまぜの感情が
悔し涙となって溢れてきます。


医学の世界を変えなくては、どうにもならない。
でも、変えることはとても難しい。
でも、広河さんたちは、できることがあると、
闘い続けています。
小さくても、行動を起こし、声を上げていくことが
大切なことを仰っています。

医学のトップに、
山下俊一氏のような人間がいる限り、
良心があっても声を挙げられない医者たちはいて、
でも、医者であるなら、命を守るべき。
おかしいことはおかしいと言い、
正しいことをすべきなんです。本当は。

最後に、福島県内で放送されたニュース番組でしょうか。
球美の里の様子を特集した番組を見せて頂きました。

その中で、保養に来た女の子が、
皆の前で自己紹介をするのですが、
「どこから来ましたか?」の問いに、
答えられずにいました。
「今住んでいるところでもいいし、
ここって言いたいところでいいよ。」と、
言われるのですが
それでも、答えませんでした。

彼女は、楢葉町に住んでいたのですが、
今は避難して違うところに住んでいて、
彼女は、きっと、答えなかったのではなく、
答えられなかったんです。

生まれ育った町と、避難して暮らしている町。
彼女には、彼女なりの想いがきっとあって。
答えに困っていたのだと思いました。

その場面もまた、何だか切なくて・・・

まだ幼い小さな胸の中に
いろいろな複雑な思いがあって、
どこから来たのかさえも、簡単に言えなかったこと。

広河さんは、その特集の中で仰っていました。
「国が本気で保養に取り組むときが、
自分たちの役割を終える時。
国が取り組むまでは、続けていく。」と。

国は、恥ずかしくないのでしょうか。
何の対策も講じず、
広河さんたちや、ボランティアの方々の力に
任せっきりで。

福島県はもちろん、国も当然、球美の里のことは
知っているはずです。

それでも、何のリアクションも無し。

それで、子どもの未来がどうのとか
よく言えたものです。

とにかく、国に期待して待っているだけでは
どんどん時間が過ぎていくだけです。
民間でできることをする、支援するしかないのです。

後悔しないためにも・・・。

 

最後は質疑応答の時間がありました。
終わりの時間が特に決まっていなかったのでしょうか、
広河さん、たくさんお話してくださって
終わったのは22時20分頃?でした。

 

26日(金)にもイベントがありますが、
仕事で行けないので、
5月4日のイベントに、また参加しようと思います。


 


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