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ひとつの命 [etc.]


命と国益を平気で秤にかけ、
命より国益優先の考えを
自ら明確に発言した高村副総裁。
(2014.6.12報道ステーション)


集団的自衛権の行使容認が通れば、
間違いなく、
他国のために自衛隊員が血を流すことになること、
政府の考え方、よくわかりました。





日本の若者が、お国のためと命を捧げたことを
決して美化してはいけない。
彼らの犠牲の上に私たちは生きていますが
彼らを英雄として讃えることも違うと思っています。

国の為になんか死んじゃダメなんです。



彼らの死は本当に死にたくて死ぬ自殺とは
全く違います。

あの時代、本心を声にすることが許されなかっただけで
本当は、死にたくなんかなかった若者が
どれだけいたか。


目撃!日本列島「特攻隊員“破られた遺書”をたどって」
を見て、あらためて思いました。






8年前に亡くなったというある女性。
結婚後、しばらく子どもに恵まれず
ようやく授かったご長男である息子さんを
特攻で亡くしました。

戦後、特攻で亡くされたお子さんのことを
話すことは滅多になかったそうですが、
晩年、その息子さんについて
女性が語ったというテープが見つかりました。


「あの子は、本当にもう私にはよくしてくれました。
どうして 軍隊に行こうという気持ちになったのか。」

昭和17年
ミッドウェー海戦で大敗した日本。
翌年、戦局が悪化するなか始まった学徒出陣。
若者たちが次々と戦場に送られました。


この年、16歳だった息子さんは
学校を中退、少年飛行兵に志願しました。


女性「私には何も言わなかったんです。
兵隊に黙って志願していたことは。
陸軍も海軍も試験を受けに行って
両方とも通ってきました。
そして、通知が来たのでびっくりしたんです。
そしたら、「僕、陸軍に行く」と
「陸軍だったら死んでも
お骨が戻るかもしれないから」と
ばかなことを言って…
それで、ぱっと陸軍に決めたんです。」

昭和18年
爆撃機に乗る通信兵になるため
陸軍航空通信学校に入学しました。


「夕方の7時の汽車で、あの子らは行くと決まって
そして会いに行ったんです。
まぁ…その時は、泣いて泣いて泣いて泣いて、
「そんなにお母さんと別れるのがつらいの?」と言ったら、
「つらい」と。
「もうそれほどつらいんだったら、
(軍には)まだ入っていないんだから帰ろう。
母ちゃんがどんなお詫びでもしてあげるから帰ろう」
と言ったんですよ。
そうしたら、「それはいけない」と言うんです。
向こうから兵隊さんのサーベルの音と
カツーン カツーンと靴の音がして
その音が近づいてくるんです。
「お偉い人が回ってきたな」と思って
その涙は、うわーっと拭って。
本当にあの時の姿には、もう…私、
これだけ男泣きに泣いていた子が…と思って
「母ちゃん、元気でな!」って言って、きちんとして…
あの年頃で、あの子はあんな風にならないと
いけないのかと思って…」



その後、親子で交わされた手紙が残されていました。

「(中略)お懐かしき○○様 この中に千人針、御守り、香水など
入れておきます。
母さんは、あなたが御無事で御帰宅なさる日を
一日千秋の思いでお待ち申して
一生懸命でお祈り致しております。」

と、お母様から息子さんへの手紙。

息子さんからは、

「(中略)○○(御自分の御名前)は、
益々元気にて毎日の訓練に励んでおります。
皇国守護の第一線に、出陣できる日を心に念じ、
日々、努力致しております。」



お母様「(中略)死してばかりが御奉公ではありません。
どこまでもどこまでも、生きて生きて生きて、生きぬいて」



昭和19年
本来は2年間受ける訓練を1年で終え、
息子さんは戦地へ向かうことになりました。
出陣を前に、一日だけ帰省を許されました。


突然、帰宅した我が子を精一杯の手料理でもてなしたお母様。
翌朝、軍に戻る息子さんの不自然な動きに気が付きました。

「あの子が、朝帰る前に
何かをしゃっしゃっと引き裂いて
ごみかごにパッと投げ込んだんです。
それを私が見て、
「いや~あの子は何か封筒のようなものを裂いたな」と思って、
そして、家を出たあとに、そのごみかごを見たんです。」


お母様が見つけたのは切手が貼られた封筒。
お母様は、破られていた中身を一枚一枚、
つなぎあわせました。


「あらっと思って、それでつづり合わせたら
これは“遺書”と書いてあると思ったんです。
あぁ、もうこれが最後かなと。」


そのつなぎ合わされた手紙には
「遺書」とはっきりと書かれており、

「(中略)今まで筆舌には到底尽くし難き
御両親の御恩に、何ら報いることなく
御先に戦死しますが、何卒お許しください」

との言葉が。


何故、息子さんは遺書を破り捨てたのか。



89歳の元特攻隊員の方。
一度、出撃したもののエンジントラブルで引き返し、
生き延びた方がお話ししてくださいました。

死んでいった仲間の声を残すために
遺族を訪ね歩き、
1000通以上の遺書を集めてきたそう。

破られた遺書は、見たことがないとのこと。

その男性は、つなぎ合わされた遺書を読み、

「生きているうちに見せたくないという心境だったのではないか。
親に心配かけるから。
自分のお腹を痛めた子が死んでいくのに
悲しまない親はいないでしょ。
(遺書を)見たら、どれほどショックかと思って
瞬間的に破ろうとしたんじゃないかな。」

そうお話しされました。



昭和20年
息子さんは、陸軍飛行第62戦隊に配属。
一つの機体に4人が乗る特殊な特攻を命じられました。

作戦に使われたのは、通常の戦闘機の特攻に比べ、
10倍以上もの爆弾を積んだ大きな爆撃機。

息子さんは、特攻隊員になったことを
お母様に伝えなかったそう。

その頃、お母様が送った手紙には

「(中略)休暇がございましたら、
帰省してくださいませ。
その日を楽しみにお待ちしております。
大切な御身です。十分に御身の上に
御注意遊ばして御無事で」と。



昭和20年 4月
息子さんからお母様宛に
一通の葉書が届きました。

普段は所属する部隊から出されていたのに
このお手紙は別の住所から出されていました。

福岡県の旅館。
そこは当時、特攻を直前に控えた隊員たちが
宿泊する旅館でした。

この旅館を経営していた方のお子さん(現在80歳)が
当時のことをお話ししてくださいました。

この旅館から出された手紙は
当時、軍による検閲を受けなかったとのこと。

「うちの親父がおそらく便宜をはかってやったのだと思う。
こそっと隠れて
「大丈夫、はがきは出しておくから」と言って
隊員が涙を流して話すのを聞いて
「家はどこか?」と尋ねて、
手紙を出してやったり、電話をかけてやったり
そういうことをしていたんだと思う。」


その旅館から出された葉書には
和歌が記されていました。

「海ゆかば 水漬く(みづく)屍(かばね)と
往く(ゆく)君を
故郷待てり 母の心は」

海に散ってゆく私の運命を
故郷で待つ母は どう思うだろうか



お母様は息子さんの覚悟を知りました。

「ああ、これを読むと
これは特攻隊に入ってるんだなと思って
会いに行かないといけないと思って。」

しかし、空襲が激しくなるなか
幼いお子さんを抱えていたため
会いに行くことはできませんでした。

代わりにお父様が面会に行くと
普段は口数の少ない息子さんが話し続けたそう。

「一度も「お父さん、こうだろ」と言ったことがなかった子が
その晩は、お父さんに口を開けさせなかったと。
(アメリカが)沖縄まで攻めてきたから
負けるということは言わなかったが
「僕らが行かないと日本は助からない」と。
「僕らが行かなければいけないんだ」と
ただそれだけ。
しゃべり通し、朝まで。
よくこれだけ仕込んだものだな、
訓練させたものだなと思いました。」



昭和20年5月25日

戦死




破られていた遺書


「遺書

我大東亜戦にたおる
(中略)
帝国軍人として本懐 これに選るはなし 」



お母様は、つなぎ合わした遺書を
家族にも見せることはありませんでしたが
お母様が亡くなられた後、
ご仏壇の引き出しの奥から見つかりました。


弟さんは、

「「兄貴は帰ってくるかもしれない」と
僕らは言われていた。
おふくろは、「どこかに不時着しているかもしれない」と
そう思っていたと思うんですよ。
「もしかしたら、もしかしたら帰ってくるんじゃないか」
という思いがあったからね。
どうしても子どもたちには(遺書のことを)言わなかった。」

そうお話しされていました。


出撃前に、旅館から届いた最後の便りを
お母様は遺影と共に、
ずっと飾り続けたそうです。

葉書には、もう一首、和歌が添えられていました。


父や母 よも散りしとは 思うまじ

みたま かへるか ゆめの腕(かいな)に




せめて 魂は 夢の中で
母の腕に戻りたい



お母様「夢で、ふと○○(息子さんの御名前)が出てきて
「母ちゃんな、僕、パイロットになったんで」と。
それこそパイロットの姿で出てきましたよ。
「ありゃー、あんたパイロットになったの」
と言ったら
「うん、パイロットになったよ」と
それが、生きている者同士が話をするようでした。
それから二度とその姿を見せません。
あの世でパイロットになったのかな。」



太平洋戦争末期、
航空機の特攻で犠牲になった若者は4000人。





この番組を見ていて、
途中から、これはもしかしたら以前、
私がテレビで見て、その時のことを
ここに記事にした中に出てくる特攻隊員の
方のことではないかと
思っていましたが、
最後に紹介された和歌を知り、
やはり、そうでした。


【過去記事】

http://to-sora.blog.so-net.ne.jp/2009-08-15



5年前に見た放送は、別の切り口で
特攻が取り上げられたものだったので
特攻隊員の方とお母様とのお手紙のやりとりや、
遺書が破られていたことなどは知らず、
今回、初めて知りました。

前の時も記事を長々と書き連ね、
今回も、番組自体は30分もない放送でしたが、
長文になってしまいました。


それは、これを、このお母様の思いや
言葉や文章では、
お国のために喜んで兵隊になり、
死んでいくのだと書いてはいても、
本当は決して喜んで犠牲になったわけではないことを
どうしても伝えたい、伝えなければならないと
思ったからです。



一人の、たった一つしかない命を
軽視する政治家がいて、
私には、その政治家の考え方を変えることはできませんが、
どんな思いで死を覚悟し、戦場へ向かったのか、
それを一人でも多くの方に想像してみて
欲しいと思っています。



16歳で兵隊になることを決め、
親元を離れ、
20歳にもならない若者が死ぬことをわかっていて
空に飛び立つ。


昔と今とでは時代が違いますから
当時のような時代に戻ることは
考えられないですし、
そうならないことを願っていますが、
一人の命も大切に思えない政治家が
国民の命を守れるとは思えないのです。


今の政治は国民より国家を守ることを
大切にしている気がしてならないのです。



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